小川悟の宣言ストーリー

はじめまして!

「やさしいところ、こまかなところに気がつくところ、すごいなぁ」と言われる、話しやすい工務店の小川悟(おがわさとる)です。


「なにごとにも、誠心誠意接してくれたこと、感謝します」とお客さんが笑顔になることが、わたしのよろこびです。

そのために、「親戚のお兄ちゃんという感じで頼みやすい」と言われるように、心がけていきます。

小川工務店 小川悟

「お前の兄ちゃん、カッコええな!」

父は船が大好きでした。家の近くの南港という港に、連れて行ってくれました。幼稚園の時、わたしと二人です。父は船をじーっと見ているんです。車で屋台をしているお店のホットドックを買ってもらうのが楽しみでした。

でも、父は、工務店の仕事をしていたので、休みの日はほとんど家にいませんでした。朝早くから現場に行っていました。

そのため、小学校のころ、運動会も授業参観も父は来たことがなかったです。「僕らには関心がないのかなぁ」となんとなく思っていました。

怒られたことも、褒められたことも、アドバイスをもらったことも、ありません。

 
父と

小学3年生から、ボーイスカウトに入りました。母の勧めです。後から聞いた話では、兄が生まれてから10年たっているので、親も年を取っていました。そのため、どこにも連れていけないので、代わりに連れて行ってくれるのにちょうどいいと思ったそうです。

ボーイスカウトは、友達と集まったり、キャンプしたりするのが楽しかったです。テントを張って、テントの中で寝たり、カレーライスを作ったりというのが楽しかったです。単純にみんなと遊びに行ける、体を使うことが好きだったのです。

ボーイスカウトでは、友達が2、30人できました。

 
ボーイスカウト

小学4年生の時です。10歳上の兄が、一回だけ運動会に来てくれました。兄が20歳の時です。兄はサングラスをして、セカンドバックを持ってきたんです。

びっくりしました。「え?!」「何できたん?!」と。すごく嬉しくなりました。

母が、二人の写真撮ってくれました。それを見て、クラスメートたちが大騒ぎ。

「おまえの兄ちゃん、カッコええな!」

それがすごく嬉しかったです。

もう嬉しくて、鼻高々ですね。忘れられないエピソードです。私は足が速かったので、その姿を見てほしかったのです。

兄サングラス

「おまえ、もっと遊べよ」

少年時代、一番きつかったのは、小学5年生と6年生の時です。担任の先生との関係です。30代の男の先生でした。

先生は、授業にはあまり力を入れず、係活動を非常に大切にしていました。毎日係活動で何をしたかをみんなに聞いていきます。わたしはレクリエーション係。毎日とくにやることがないのです。毎朝毎朝、「してません」というと、パーンとほっぺたを叩かれる。何も抵抗できないです。

辛かったです。毎日、朝が嫌でした。何をしていいかわからない。なぜ、叩かれているのかわからない。でも、「いつか見てろよ」と徐々に怒りの気持ちが、強くなっていきました。

授業参観の時に、他の親たちが一斉に、先生に詰め寄ったのです。「なんでこんなことしてんねん」と。その時に、初めてうちの母は知ったので、「あんた、なんで言わへんかったん」と言われました。こんなことを告げ口するのはいけないことと思ってました。誰にも話してなかったのです。

中学に入ると、近所の2歳上のお兄ちゃんから、「やるやろ?」とサッカーを誘われました。幼馴染で、公園に行ってサッカーをしたり、よく遊んでいたのです。それで「俺サッカー部だから、お前も入れよ」と誘われました。

わたしもサッカーが好きだったので、二つ返事で「入ります」と答えました。昔から、わたしは、運動神経がよくて、サッカーもうまかったのです。サッカーをしてる時が一番の楽しみでした。
サッカー部でも、同級生の中では一番走りが早かったです。ドリブルして相手を抜き去ることも、パスすることも、自分の思い通りにできたのです。ポジションは、ミッドフィールダー。2年生からレギュラーでした。

チームはそんなに強くはなかったです。市のブロック大会の中で3位くらい。ただ、顧問の先生は寛大な人で、自由な雰囲気でした。


兄とは10歳離れてるので、小学校の時は一緒に遊んだりしたことはなかったです。わたしが、中学2年生の時に、親が寝てから兄と姉と3人で話したことがあります。「おまえ、学校どんな感じや?」と聞かれました。僕は「サッカーしたり、他の中学の子と喧嘩したり」と答えました。

「もっと遊べよ」

と兄はアドバイスしてくれました。

それまで、兄はちょっと遠い存在でした。中学2年生の時の晩の会話、そこから親しくなった気がします。わたしが14歳、兄が24歳
中学生

 

「一緒に飲みに行こう」

高校の時は、帰宅部でした。「サッカーはもういいや…」と思って、なにもしなかったです。他の運動もやりたくなくて。

中学最後の試合は強いチームに、コテンパンに負けました。「こんなもんか」と、悔しさとかなかったです。違いを見せつけられた感じです。それ以上のところには行けないなと。それで、サッカーはあきらめました。

 

今振り返ると、トコトンまではやってないです。限界まで追いつめてない。中途半端。仲間うちで満足して、一歩上に行こうという気はなかった。

 

高校では、ぶらぶらしてるような子たちと仲良くなりました。ウマが合ったんですね。それでも、友達は、考え方はきっちりした人たちでした。

 

遊びたい年頃。カラオケに行ったり、ゲームセンターに行ったり、なにかに熱中したわけでもなく中途半端で、流されるまま怠惰な生活でした。

あきらめもあったし、楽な生活に流れて行きました。

 


高校時代は全く勉強しなかったので、大学には行くどころではありません。専門学校に行くにあたり、実家が工務店だったので、建築の学校にしようかなと思いました。ただ、実家を継ぐつもりはありませんでした。

 

専門学校は、出席してなかったので、進級できずにやめてしまいました。母から「学費払ってんのに」と小言を言われました。父からは何も言われません。

 

20歳ころ、車の免許を取りました。取ってすぐの頃、父が、車で四国までドライブしようと言いました。大歩危小歩危とか行きました。二人で、朝早く行って夜中に帰ってきました。たった1日でしたが、父は、うれしそうでした。

 

20歳越えたころから、「大人になったから、一緒に飲みに行こう」と父に誘われるようになりました。今まで何もしなかったのに、急になれなれしくなってと感じていました。

「今までほったらかしだったのに」

なんか違和感がありました。何度か誘われても、「ええわ」と断りました。今思うと、わるいことをしたと後悔しています。


専門学校をやめて、2、3年はバイトしながらぶらぶらしてました。そんなわたしを見かねて、父に「やることないなら、バイト代払うから、うちの仕事手伝わへんか?」と言われました。

特にやることもなかったので、バイト感覚でやろうかな思いました。最初は、荷物運びや掃除だけ。「とりあえず、これやっとけ」と父に言われて、雑用をしていました。

ビス打ちとか釘打とかは、大工さんに全部教えてもらいました。父からは何も教えてもらっていません。父は、ずっと現場にはいなかったです。材木屋さんに材料を取りに行ったり、現場に来ても、すぐ営業に行ったりしていました。

20歳の頃

 

「さーちゃんの子供がほしい」

32歳のときに結婚しました。結婚して3ケ月くらい経ってからのことです。顔を合わせば、常に喧嘩。しかも、喧嘩の理由もよくわからない。

 

結婚前は、一緒にいてすごく楽しかったのです。お笑いのツボも一緒で、価値観も似ていました。

 

ある時、鍋を食べてる時に、「おいしいけど、もうちょっと味濃い方がいいんちゃう?」とそのくらいの話だったのです。そこからエスカレートして、「あのときはこうだったやん?」と過去の不満を次々に切り出してくる。

 

最初は、「え?何を言うてんの?」という感じで、相手の意見に全部反論していました。そのあと、喧嘩が嫌だから全部話を聞きます。それでも、言ってることがわからなくて「最終的にどうしたいの?」と聞くと「自分で考えて!」と言われる。そんなことが続いてました。

 

解決できないような喧嘩なんです。そのような話し合いのために、夜通しの話し合いをしたり。そのまま仕事に行ったり。ものすごくしんどかったです。


ついに、わたしが、「もういい加減にしてくれ!」と怒鳴った翌日、彼女は実家に帰ってしまいました。その後、離婚しました。

離婚した後は、相手に対して怒りを感じていました。「なんで自分が離婚なんてしないといけないのか?」と。浮気したとか、借金があるとか、暴力をふるったとか、自分にはなにも悪いことをしていない。鬱々としていました。

 

その後36歳の時、同業の経営者の人から「きみ、まだ怒りがあるね」と言われてハッとしました。怒ってたんやなと自覚しました。その後、自分の鬱々した気持ちの正体がわかったので、少し落ち着いてきました。

 

37歳のときに、今の妻と結婚しました。付き合っていた期間は10か月。

 

結婚したいと思った瞬間があったのです。

ある日、電話で話していました。妻は母親を亡くして、お父さんとお姉さん家族と一緒に暮らしていました。お姉さんの子供が、当時小学3年生と5年生。電話口で、妻が「あんたら、早く腹巻して寝えな」と言ったのです。「この子同じだ。いいなぁ」と思ったです。

 

兄の子供が小さいころ、実家に泊まりに来た時がありました。わたしも兄の子供に「早く腹巻して寝なあかんで」と言ったのを思い出したのです。

 

その後、妻から「さーちゃんの子供が欲しい」と言われて、すごくうれしかったです。自分のことをそこまで、思ってくれていることが、うれしかったのです。

 

喧嘩が無くて朗らかで、笑いがある生活。「僕が思い描いていた理想の結婚生活だなぁ」と今も思っています。毎日楽しくて、満たされています。

38歳のときに、子供が生まれて、怒りも消えました。

家族と

 

 

なぜ、わたしは【正直】を使命として掲げているのか?

43歳のとき、父が亡くなりました。亡くなった日の夜、寝入るときに「今まで素っ気なくて、ごめんな」と謝りました。すると、「かまへんで」と妙にリアルな声が聞こえたのです。

 

いざ亡くなると、意識的に、素っ気なくしていたことを悪いと心の中で思ったのです。父もしゃべりたかったのかなと思いました。

 

私は一人で飲みに行くのが好きでした。酔っぱらって帰ってくるんです。すると、妻にめちゃくちゃ怒られました。「あんたもう、人の親やで!もしなんかして犯罪者になったら、この子は犯罪者の息子になるんやで!」と。それでも、「わかった。わかった」と言っては、同じことを繰り返していました。

 

子供が生まれて1年ほど経ったころ、記憶をなくすくらい飲んで、自転車で帰って来たことがありました。まともに歩けないような姿を妻は見ている。

 

酔っぱらって帰った翌日です。「記憶をなくすまで飲んだらあかん!」とものすごく怒られました。

子供の人生を背負っているのに、妻に「こんなことを言わせてしまった」という後悔がありました。

 

「息子がいる身なのに、自分の好き勝手やって、俺何やってんだ」

 

そう思いました。父親の自覚が、まだまだ至らなかったのです。

 

そのとき、ふと亡くなった父のことを思い出しました。父も好き勝手やってましたが、「俺も同じことしてるのかなぁ」と。父の嫌いなところを自分もやってるのかもしれないなと。そう思うと自分がみじめで、情けなくなりました。

 

「その通り…」

ただただ謝ったのです。心から正直に謝ったです。

 

その瞬間、それまでの過去のことが一気に見えてきたのです。
 
すべてのことに、正直さが欠けていたのではないか…

 
小学5・6年生の時、担任の先生に怒られっぱなしで、誰にもなにも言えなかった。

母や友達に、正直に話すことができていたら…


20歳のときに、父に「大人になったから、一緒に飲みに行こう」と誘われたとき、素っ気なく断ってしまった。

「本当は、もっと構って欲しかったんだ…」という自分の正直な気持ちに気づけていたとしたら…



32歳のとき、自分が正しいと思って反論したために、平行線になり離婚してしまったこと。

「言い方が悪くて、ごめん」と、正直にあやまることができたとしたら…

頑固になり、自分の中にだけ、怒りをため込んできた。自分の気持ちに正直になれなかった。自分に正直に行動できなかった。

そうなんです。わたしには、正直さが、欠けていたのです。
 
この体験から、わたしは、【正直】を使命として掲げることにしました。

正直

【正直】を使命として掲げることで、前向きに行動するようになりました。自発的に生きるようになりました。

今から6年前に建築士の資格を取りました。学校に行って、一生懸命追いこんで勉強しました。高校のとき、専門学校のとき、がむしゃらに生きてこなかった後悔からです。

仕事では、真面目に一生懸命を常に心がけてます。どんな小さなことでも手を抜かず、人が見ていないところでも誠心誠意取り組んでいます。

 

それから、お客さんとの関係も変わったのです。あるとき、ちょっとしたクロス張替の工事をしたお客さんから、このように言われました。

 

「特に、弟さんが何事にも誠心誠意接していただいて、感謝しています」

 

和室の壁を塗った後、ご主人のお母さんが、塗りたての壁を傷つけたのです。ご主人さんが「壁に傷ついてんねん」と言われました。私は、躊躇なく「わかりました。また塗っときますね」と言って対応したのが、よかったのだと思います。

去年、古くからからお付き合いのあるお客さんから大規模リフォームの依頼を受けました。それまで、トイレ工事や建具入替えなど小さな工事をさせてもらいました。そこで、わたしのどんなところがよかったのか、聞いてみました。

 

「毎日来て現場を見てくれているから、相談しやすい」

 

「親戚のお兄ちゃんという感じ(笑)。ちょっと思いついたときに、すぐに、いつでも頼める」


「今回の大がかりなリフォームのときに、ずっと仕舞っていた蔵の荷物の中から、小さなお雛様だけ見つけて取っておいてくれた。すごい感動した。やさしいところ、すごいなぁと」


雛人形

このように言っていただけると、この仕事をやっていて、本当によかったと思いました。人が見ていないところでも、誠心誠意尽くすように取り組んできてよかったなぁと思いました。

 

これからも「面倒くさいことでも、嫌な顔をせずにやってくれて、うれしい」と言われるように、仕事に取り組みます。

 

そのためにも、【正直】を使命として掲げていきたいと思います。

 

 

最後に

今は亡き親父に

もっと話ができたら、よかったなぁ…

もっと関われたら、よかったなぁ…と思っています。

今になって親父の気持ちがわかるようになりました。

この想いを持って、自分の息子との付き合いを大事にしていきます。

 

不器用な俺ですが、見守っていてください。


俺が天国に行ったときは、一緒にお酒を飲んでください。

 
小川悟

兄と一緒に

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