創業者から3代目になります、代表の小川 裕(おがわひろし)と申します。
家業が工務店という事で、見習い大工から仕事を始めました。
それから32年、家のことなら構造から内外装、設備と知り尽くしております。
自然素材をふんだんに使い化学物質を出さないお家。大地震に耐える構造。家族の成長と共に味わいが増し経年変化の楽しめる天然木のお家。私の建築技術のすべてを注ぎこんだあなたのための一棟を真心こめて創ります。
代表プロフィール
私どもの工務店は、私の祖父、小川 章(おがわあきら)が昭和10年に、住吉区に創業しました。明治生まれで章(あきら)という名前はハイカラだったと祖母がよく言っていました。私は3代目という事になります。
祖父、父親、私、弟と、代々大工一家に生まれました。私の息子も建築関係で務めておりますので、彼が継げば4代目という事になります。でも大工ではなく建築関係の営業なんで、私が元気なうちに大工技術を伝授したいと思っております。無理強いしませんのでわかりませんが(笑)
私が六歳くらいの時、祖父宅に行くと大工の職人さん達が、よく柱をかんなで削っていました。
「あっ 桧の、ええにおいや」
「おっ ひろっちゃん。桧て、よう分かるのお!」
私はこの、桧の匂いが大好きだったのです。
桧だけではありません。
「杉の匂いや」、「ひばかな、これは」、「うわっ くさっ この胴縁」
「匂いだけで、分かるなんて、さすがおじいさんの、孫や。将来は絶対大工やな」
柱はプレナーという、電気かんなで加工した後、大工さんが手かんなで、仕上げをします。
「シュウー」 うすーいかんな屑が、真上に飛びます。それを鼻に当て、
「ああっ ええにおい」
私は、この〝かんな掛け〟という作業が大好きでした。そげが刺さるような荒木の状態から、みるみる、ツルツルになっていくのです。
匂いもいいし、触ればつるつる。光が反射するくらい、ツルツルでした。
今思えば、私が大工になりたいと思った瞬間だったのかも、知れません。
祖父は豪快な人で、周りにはいつも沢山の職人さん達がいました。
また、お酒好きで、喧嘩好き。
ある日、現場で祖父達が仕事をしている時に、御施主さまである、ご主人と奥様がこられました。皮靴とヒールで家の中に入ってきたのを見て、祖父はブチ切れました。
「こらっー 靴脱いでから入ってこんかい!!」
「あっー なんやと! ここは、わしの家じゃあ!!」
「お前の家でも、引き渡すまでは、わしに責任があるんじゃあ!靴脱いで上がってこい!」
掴み合いの喧嘩を、びっくりしながら、見ていた記憶があります。
その当時は、喧嘩の理由などまったく分かりませんでしたが、後になって父親に理由を聞きました。
いくら、お施主様でも、祖父が真心と丹精こめて作った家を土足で入ってきて、床に傷が付くのが許せなかったのだと。
豪快で怖いという祖父のイメージが、すごく責任感のある人なんや、と気付いたのは祖父が他界してからでしたが・・・・。
でもその後、ご主人が非を認められて、二人が現場で酒盛りをしていました。
昭和四十年代・・・今では考えられませんが、古き良き時代だったのですね。
私は現場仕事が好きで、その後も、掃除をしに行ったり、大工さんの手伝いをしていました。子供だった私を職人さん達はかわいがってくれました。
そして高校を卒業して、私はやはり大工の道を選びました。(大工になる前は少しだけ寄り道しましたが…)
最初の仕事は、掃除です。まず掃除。そして掃除。やはり掃除です。初心者の私に出来る仕事といえば、掃除か材料上げか大工さんの〝あいばん〟。あいばんというのは、大工さんの言うとおりに、物を取ってきたり、持つのを手伝ったりする事です。
「見て仕事を覚えろ。見て仕事を盗むんや。」
昔の大工さんはよく言いましたが、実際見て覚える事はできないです。
やって、失敗して、恥をかいて、仕事は覚える。と、心の中で思っていましたが、もちろんそんな事を言えば、どつかれます。
今になって思えば、私の考えが、正解だったと思います。(笑)
失敗しながら、たたかれて、仕事を覚えていく事ができた私に、生涯忘れられない出来事が起こりました。
平成7年。 そう阪神淡路大震災です。
私は当時、阿倍野区に住んでいましたが、あまりの激しい揺れと、信じられないニュースの映像を見て、三日後にバイクで神戸に行きました。
「なんや!これは?!こんな事ってあるんか?!」
私の見た正直な感想です。
家が二階から上が折れ、高架が崩れ、マンションの三階が押しつぶされ、道路は割れて、寸断され、すさまじい光景が目の前に写っていました。
震災三日後は、支援物資がまだ本格的に届いていない時期でありましたので、人々は呆然と道端に座り込んでいました。
「神戸を再建せなあかん」
私は強く思いました。当時神戸は私どもの工務店の営業エリア外でしたが、知り合いの大手工務店の大工さんがみな神戸に行くので、大阪の仕事ができなくなるから、やってくれないかと、依頼がありました。でも私は言いました。
「私も神戸に行かせてください。」
その後三年間、神戸に泊り込んで一生懸命仕事をしました。
ある日仕事をしていると、年配のご主人が、じっと見ておられました。
「あっ、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」
私はいつもの様に言いました。すると、
「なにゆうとんのや! あんたらがわしらの町を、直してくれるんや。もっと胸をはれ!」
予想外の答えに、一瞬びっくりしましたが、なんかこう、胸が熱くなりおもわず、「ありがとうございます。」と、言ってしまいました。
またある日、仕事をしていると、向かいの更地に献花してありました。
「お気の毒に、誰か亡くなったのか。」
当時の神戸では、珍しい光景ではなかったのですが、子供のお菓子と、おもちゃが供えられていました。
後にお隣の奥様に聞いたのですが、あの日、崩れてきた梁の下敷きになって、奥様と小さい子供さん、そしておなかの中にいた、赤ん坊の三人が亡くなって、ご主人一人が生き残ったそうです。
当時私も、一歳の娘と息子を妊娠中の妻がいました。もし、私がご主人の立場だったらどうなっていただろう。生きる気力さえ、失ってしまったかも知れない。
なんとも言えない、もやもやというか、やるせなさというのが胸の奥に沸いてきて、その日は仕事を切り上げホテルに戻りました。そして、あかの他人さんの事なのに、泣いた事を今でも鮮明に覚えています。
私は神戸時代を経て、強く学んだ事があります。車や家財道具など失ってもまた買えばいい。でも家族の誰か一人でも失ってはならない。
〝家は絶対に潰れたらあかん〟
心の拠り所、家族のベースである家が、地震によって潰れ命を失う。
〝こんな不幸な事が絶対にあったらあかん〟
この考えが私のすべてのベースになっています。
耐震の最高等級である3で設計するのは当たり前、それ以上に制震・免振を考慮しなければ、連続して地震が起こった時に耐えれない事もあります。
また、最近のお子さんにアレルギー体質が多いのは、シックハウス症候群の可能性があると書籍で読みました。
「新建材ばっかし使ってたらそら体も悪~なるわ」
新建材とは合板やビニールクロスなどの事です。これには化学物質を使った接着材や塗料がふんだんに使われています。私も新築のモデルハウスや設備のショールームに行けば、ツンと鼻につく特有のにおいが臭くって気分悪いですもの。
私が嫌いな建材は使いません。私が創る家はすべて化学物質が発生しない自然素材を使い、お客様とくにお子様の健康を守ります。
あれからすでに25年近い歳月が流れました。
今もこの時の思いを大事に家を建て続けていますし、これからも変わることはありません。
またこの想いは若い世代に引き繋いでいかなければならないと思っています。
長文をお読みいただき感謝いたします。
代表 小川 裕
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