大阪市・堺市でリフォームをお考えなら、創業72年 大阪市住吉区の小川工務店

小川工務店ってどんな会社?

リフォーム業は私の「想い」であり、「生き様」です。
それをお客様にお届けできればこんなに嬉しいことはありません。

代表 小川裕こんにちは、代表の小川 裕と申します。
祖父が昭和10年に住吉区で創業してから私で3代目になります。私がこの仕事を継ごうと思った経緯、この仕事への思いを体験談をまじえつつお話させていただければと思います。そして読み終えたときに、これまでよりちょっとだけ私たちのことを身近に感じていただけたら幸いです。それでは長文ですが、しばしの間お付き合いください。

そもそも私どもの工務店は、私の祖父、おじいさんが昭和十年に、
住吉区に創業しました。私は三代目という事になります。
祖父の父親が、工務店の前身のようなものを、作ったと聞いていますので、
それからだと、四代目という事になります。
祖父、父親、私、弟と、代々大工一家に生まれました。

私が六歳くらいの時、祖父宅に行くと大工の職人さん達が、
よく柱をかんなで削っていました。
「あっ ひのきの、ええにおいや」
「おっ ひろっちゃん。ひのきて、ようわかるのお!」
私はこの、桧の匂いが大好きだったのです。桧だけではありません。
「杉の匂いや」、「ひばかな、これは」、「うわっ くさっ この胴縁」
「匂いだけで、分かるなんて、さすがおじいさんの、孫や。将来は絶対大工やな」

柱はプレナーという、電気かんなで加工した後、
大工さんが手かんなで、仕上げをします。
「シュウー」 うすーいかんな屑が、真上に飛びます。
それを鼻に当て、「ああっ ええにおい」
私は、このかんな掛け≠ニいう作業が大好きでした。
そげが刺さるような荒木の状態から、みるみる、つるつるになっていくのです。
匂いもいいし、触ればつるつる。光が反射するくらい、つるつるでした。

今思えば、私が大工になろうと思った瞬間だったのかも、知れません。

祖父は豪快な人で、周りにはいつも沢山の職人さん達がいました。
また、お酒好きで、喧嘩好き。ある日、現場で祖父達が仕事をしている時に、
御施主さまである、ご主人と奥様がこられました。皮靴とヒールで家の中に入ってきたのを見て、祖父はブチ切れました。
「こらっー 靴脱いでから入ってこんかい!!」
「あっー なんやと! ここは、わしの家じゃあ!!」
「お前の家でも、引き渡すまでは、わしに責任があるんじゃあ!靴脱いで上がってこい!」

掴み合いの喧嘩を、びっくりしながら、見ていた記憶があります。その当時は、喧嘩の理由などまったく分かりませんでしたが、後になって父親に理由を聞きました。
いくら、お施主様でも、祖父が真心と丹精こめて作った家を土足で入ってきて、床に傷が付くのが許せなかったのだと。豪快で怖いという祖父のイメージが、すごく責任感のある人なんや、と気付いたのは祖父が他界してからでしたが・・・・。

でもその後、ご主人が非を認められて、二人が現場で酒盛りをしていました。
昭和四十年代・・・今では考えられませんが、古き良き時代だったのですね。

私は現場仕事が好きで、その後も、掃除をしに行ったり、大工さんの手伝いをしていました。子供だった私を職人さん達はかわいがってくれました。当時、祖父宅に住み込みで丁稚奉公をしていた若い大工さんがいました。
現在、私の工務店の棟梁です。私のオシメを変えてくれた人です。
かれこれ、四十年近い付き合いです。

高校を卒業して、私はやはり大工の道を選びました。
最初の仕事は、掃除です。まず掃除。そして掃除。やはり掃除です。初心者の私に出来る仕事といえば、掃除か材料上げか大工さんのあいばん=Bあいばんというのは、大工さんの言うとおりに、物を取ってきたり、持つのを手伝ったりする事です。

「見て仕事を覚えろ。見て仕事を盗むんや。」

昔の大工さんはよく言いましたが、実際見て覚える事はできないです。
やって、失敗して、恥をかいて、仕事は覚える。と、心の中で思っていましたが、
もちろんそんな事を言えば、どつかれます。
今になって思えば、私の考えが、正解だったと思います。(笑)

失敗しながら、たたかれて、仕事を覚えていく事ができた私に、生涯忘れられない出来事が起こりました。平成七年。 そう阪神淡路大震災です。

私は当時、阿倍野区に住んでいましたが、あまりの激しい揺れと、信じられないニュースの映像を見て、三日後にバイクで神戸に行きました。

「酷い!なんじゃあこりゃあ!」
私の見た正直な感想です。

家が二階から上が折れ、高架が崩れ、マンションの三階が押しつぶされ、道路は割れて、寸断され、すさまじい光景が目の前に写っていました。
震災三日後は、支援物資がまだ本格的に届いていない時期でありましたので、人々は呆然と道端に座り込んでいました。

「神戸を再建せなあかん」

私は強く思いました。当時神戸は私どもの工務店の営業エリア外でしたが、知り合いの大手工務店の大工さんがみな神戸に行くので、大阪の仕事ができなくなるから、やってくれないかと、依頼がありました。でも私は言いました。

「私も神戸に行かせてください。」

その後三年間、神戸に泊り込んで一生懸命仕事をしました。
ある日仕事をしていると、年配のご主人が、じっと見ておられました。
「あっ、ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」私はいつもの様に言いました。
すると、「なにゆうとんのや! あんたらがわしらの町を、直してくれるんや。もっと胸をはれ!」

予想外の答えに、一瞬びっくりしましたが、なんかこう、胸が熱くなりおもわず、
「ありがとうございます。」と、言ってしまいました。

またある日、仕事をしていると、向かいの更地に顕花してありました。
「お気の毒に、誰か亡くなったのか。」
当時の神戸では、珍しい光景ではなかったのですが、子供のお菓子とおもちゃが供えられていました。
後にお隣の奥様に聞いたのですが、あの日、崩れてきた梁の下敷きになって、奥様と小さい子供さん、そしておなかの中にいた、赤ん坊の三人が亡くなって、ご主人一人が生き残ったそうです。

当時私も、一歳の娘と息子を妊娠中の妻がいました。もし、私がご主人の立場だったらどうなっていただろう。生きる気力さえ、失ってしまったかも知れない。

なんとも言えない、もやもやというか、やるせなさというのが胸の奥に沸いてきて、その日は仕事を切り上げ、ホテルに帰りました。そして、あかの他人の事なのに、涙が止まらなかった事を、今でも鮮明に覚えています。
車や家財道具など失ってもまた買えばいい。でも家族の誰か一人でも失ってはならない。

家は絶対に潰れてはならない
心の拠り所、家族のベースである家が、地震によって潰れ、命を失う。
こんな不幸な事が絶対にあってはならない。

これが神戸時代に学んだ一番大切な事です。私どもの仕事はリフォームをして快適に使って頂く以外にお客様の命・財産(お家)を守るという大切な事に携わらせて頂いております。
そして、完成後に笑顔で「リフォームして良かったよ、凄く快適!ありがとう。」というような事を言って下さると本当に心の底から嬉しくなり、この仕事をして良かったと毎回思います。
正直私も人間ですので、逆に喜んで頂けなかった時などは本当に落ち込みます。「何が足らんかったんやろう」「何で満足してくれへんかったんやろう」と。

地元で3代続いて創業73年。私の息子が継いで4代目になるかは分りません。(笑)
お客様の笑顔を次世代へ継承していくという創業者の信念を守り、今日もお客様の笑顔のために一生懸命働いております。

株式会社 小川工務店 代表取締役 小川 裕
〒558-0055 大阪市住吉区万代4-14-16
フリーダイヤル:0120-758-741

1965年 12月18日 大阪市生まれ
大阪府立大和川高校卒業後、昭和60年実家大工弟子入り
祖父小川章により昭和10年創業
平成14年現社長小川 裕代表になる
平成19年株式化

資格:二級建築士・二級施工技士